水葬

 自らの形を忘れた緑のビル。今も誰かを待ち続ける時計台。舗装路の亀裂から雑草が生えている。誰もいない歩道のそばに街路樹が寄り添っている。ただ、その身はすでに錆びてしまったように茶色い。いくつも乗り捨てられた車の中でひときわ目立つバスが一つ。当然、タイヤの空気は抜けきっていてもはや乗り物として機能しない。その体にいくつもの錆びを抱えた鉄の塊は、今も変わらずに太陽の光を浴びている。
 この街が声を失くしてから何年、何十年と経ったのだろうか。人の記憶も薄れたこの街には、およそ生物と呼べる存在は死滅していた。人が手を加えていたものは、人がいなくなってから、その機能を少しずつ失っていく。その輪郭を少しずつあやふやにしながら腐っていく。
 こんな捨てられた街にも等しく太陽は存在して照らしてくれる。鈍くなった地球の自転を太陽に感じながら、今日も一日が過ぎる。気がつけば、太陽はその身を雲に隠してしまい、あたりは一気に仄暗くなる。雲はどんどんとそのかさを増していき、空一面に鼠色の雲が広がっていた。
 ——ポツリ。
 枯れた地面を少しずつ濡らしていく。懐かしい雨の匂いがあたり一体に広がっていく。数秒経つと、雨粒は数え切れない量となって空から落ちてくるようになる。視界は白く染まり、視認性が著しく低下する。遅れて、激しい雨音が響き始める。まるで拍手のような音を耳にしながら、微かな歌声が確かに聞こえてくる。その声を辿ってみれば、あのバスの中から聞こえていた。
 バスの一番後ろの一番広い座席。そこに歌声の持ち主はいた。見た目が十代前半のような若々しさを感じさせる、とても幼い少女だった。奇跡みたいに生きている少女はずっとこのバスで暮らしてきたらしく、後部座席にひかれている敷布団は年月を感じさせるくたびれかたをしていた。少女は誰にも会わず、長い間ここで一日一日を紡いできた。寂しさもとうに慣れて、同じような一日を過ごしている。なぜなら、少女はほとんど何も覚えていないからだ。唯一、少女が覚えているのは、自分の名前がアイだということと濡れちゃダメという約束だけ。名付け親も、今までの人生も何一つ覚えていない。
 少女の姿は意外にも清潔である。ただ、その清潔さはこの街においてはそぐわない違和感が生じる。そんな違和感さえもどうでもよくなってしまうほど、少女は美しい造形をしていた。それこそ、侵しがたい神聖さを感じさせるほどには。
 地毛とは思えないようなどこまでも深い藍色の髪の毛。眩しさを感じてしまうほどの白で覆われた肌。硝子球をそのまま埋め込んだような透き通った青い瞳。静かな海を宿したその瞳を覗けば、不思議な恐怖と危うさを感じさせる。手や足など、体の全てに職人がこだわり抜いて造ったような精巧さが宿っている。その全てが少女の人間らしさを否定する——人間である限り到底たどり着けないような代物であった。少女らしさを感じるのは、時折見せる表情から感じる無邪気さだけだった。
 錆びた窓枠に触れないように外を覗き見る。その顔には退屈さがはっきりと見て取れたが、覚えている約束を破るのはやはり億劫なのだろう。濡れる世界を眺めながら、ただひたすら時間が過ぎるのを待った。
 バスの後ろにはピンホールカメラとその横に写真が数枚乱雑に散らばっている。多くが一組の男女が写っているだけだが、一枚だけ、男の方と少女が写っている写真がある。しかし、経年劣化で顔は全く認識できず、ふるぼけた写真はその機能を全うしていない。何かしら少女に関係あるのだろう。しかし、少女には何もわからない。朧いだ思い出の輪郭をなぞるだけで、なにひとつ明確な映像は存在しない。少女がそのことに疑問を抱くのはいつになるのだろうか。少なくとも今はただ、バスの中でただひたすらに凍えているだけしかできないようだ。

 先ほどまでの天気が嘘みたいに、割れた雲から光が漏れる。雲が消えて、太陽がその姿を現す。地面に残った雨水がわずかに蒸発し、体にまとわりつくような湿った空気を生み出す。そして、空気中には降る直前とはまた違う雨の匂いが残る。
 空を仰ぎ太陽の姿を認識すると、少女は勢いよく外へと飛び出した。濡れて重たくなった空気を切り裂きながら走る少女は、しばらくしてその足の運びを止め、屈んで覗き込んだ。少女の気を引いたのは大きな水溜りだった。しばらく水溜りを眺めていたかと思うと、突然水面へ指を接触させた。そこを起点として静かに波紋が広がる。それによって、水溜りに沈んでいる『少女』の輪郭が少しだけ歪む。少女にとって、それが表情の変化にでも見えたのだろうか。水溜りに向かって少女は話しかけた。
「あなたは誰?」
 当然のことだが、返事は返ってこない。その『少女』は間違いなく、水溜りに映り込んだ少女の姿に過ぎないからだ。そのことを知らない少女は返事がないことを不思議に思いながら、水面に向かって手を振った。鏡写しの必然。その『少女』も手を同じように振り返した。少女の口角が自然と上がる。『少女』も笑みを浮かべる。
「私たちは、友達だね」
 久しぶりの言葉を発する。拙い知識で考えると、こういった関係を友達、と呼ぶんだな、と少女は考えた。冷たい白い肌が浮かべた表情は、少しだけ自然な少女本来の柔らかさが宿る。少女にとって、知らないものが皮膚の下を這いずり回るようなものであるはずだが、不思議と不快感は存在せず、心地よさが身体中に沁みて行く。
「お名前は?」
 『少女』の返事はない。
「名前がないの? じゃあ、私がつけてあげる!」
 嬉しそうに名前を考える。自分に名前があることが少しだけ嬉しく感じるように、きっと『少女』にも喜んでもらえるはずだと考えて、少女は一生懸命に名前を考える。うーん、とうねりながら少女は思考を重ねて行く。
「じゃあ、あなたの名前は——イアでいい?」
 少女は不安げに提案する。『少女』はしばらく沈黙する。少女の中に不安が募る中、偶然一筋の風が水面を揺らした。『少女』はその顔に笑みを浮かべた。少女にはそれがとてつもなく嬉しいことに感じて、『少女』の顔は一段と笑顔になった。
 それから、一人のふたりごとは『少女』がいなくなるまで続いた。自分のこと、今のこと、知らないこと。ずっと、ずっと。話したいこと、伝えたいことは『少女』が見えなくなっても尽きることはなく、また次も逢えることを願わずにいられなかった。だからこそ、少女は初めて叫んだのだ。
「またね!」
 次会える確証もないままに、少女は自分の住処へと帰っていった。

 次の日は快晴だった。その日、少女は燦々と照らす太陽を背負って『少女』を探しにでた。壊れた街を必死にかけ行く少女の表情はとても楽しそうであった。少女は狭い場所、広い場所、舗装路、獣道、隘路と様々な場所をくまなく探し回った。自分の肌がいくら擦れようが、煤けようが、まったく気に留めなかった。今、少女の足を動かすのは、何が何でも『少女』に会いたいという感情だけだった。
 そうして、ずっと探し回った末の夜。少女は月を背にして、呆然と立ち尽くした。
「いない……」
 当然、『少女』が見つかることはなかった。そんな当たり前が、少女にとって如何に受け入れ難いものだったのだろうか。誰一人として少女の気持ちを推し量ることはできないだろう。少女の気持ちは少女のものでしかない。それを背負って初めて少女は目の前が真っ暗になった。
「もう会えないのかな……」
 へたり込んだ地面にものすごく小さい水溜りを見つける。それを見た少女は、あることを思いつく。
 ——『少女』には雨の日にしか会うことができない。
 割り切ることができないまま、闇に溺れた街を放浪する。数え切れない『なんで』を抱えながら、どこにも行けずにしばらくふらついていると、その眼から何かがこぼれ落ちる。しかし、少女が拭った手には何もつかなかった。それでも、ずっとこぼれ落ちて行く感覚だけが続いて行く。それに付随して胸のあたりがどうしようもなく痛む。その痛みを理解できないまま住処に帰りつくが、いつになっても痛みは消えない。その痛みが消えたのは意識が途切れた時だった。

 太陽が十五回ほど浮き沈みをした後、少女はその体を起こした。寝ぼけ眼で外を覗き見れば、久しぶりの雨が降り注いでいた。
「雨だ!」
 雨粒が地面を優しく叩いて、少女を祝福する。その音に感情の高ぶりを抑えられず、少女は外へと飛び出した。幼い足が目指すのは確かにただひとつであり、『少女』との邂逅を果たした場所であった。ひた走る少女の体は、走った距離に比例して確かに熱を帯びて行く。約二週間もの間排出されなかった想いは、今にも爆発しそうだった。何度転んでも、どうにか足に力を込めてひた走った。そうしてしばらく、少女はくだんの場所へとたどり着いた。そこには前と同じように大きな水溜りができている。今、視界も暈けていてほどんど見えないまま少女は水溜りを覆うように覗き込む。それは待ち焦がれた『少女』との再会のはずであった。しかし、そこに映っていたのは今まで見たことのない姿の『少女』だった。その不気味な姿に覆わず驚いて後ろに倒れこむ。今起こった事実が飲み込めないまま、もう一度確認するために、四つん這いになりながら恐る恐る覗き込む。そこには、やはり知らない『少女』がいた。映る髪の色は銀色、まったく手入れがされていないみたいにボサボサとしている。どう見ても、金属類の質感をもつ肌。変わらない硝子球の眼。
「あなたは……誰?」
 震える声で尋ねる。恐怖が波のように押し寄せる。眼の前に転がった事実を、認められずにただ呆然と立ち尽くす。
「イアを返して!」
 全てを否定するために、そう叫びながら水溜りを思い切り叩く。水は四方八方へと飛び散る。その隙間から見えたのはありえない方向へと曲がった少女の手だった。
 頭痛が脳みそ全体を覆うのに、そう時間は必要としなかった。今まで感じたことのないようなとてつもない痛みが広がる。矛盾を正面に据えた脳みそは、悲鳴を上げる。
 どんなものだろうと確実に削り取って行く優しい雨粒。雨の公平さの前には例外なく、少女を消して行く。いっとう簡素になった少女は、ロボットと形容するのが妥当であるように思えた。銀色の髪、銀色の肌、硝子球の眼。その全てが少女が人間でないことの証明であった。
 覗き込んだ『少女』の手がなくなっていることを見て、少女はやっと思い知る。
 ——イアは存在しない。
 処理しきれない感情を押さえ込んで、必死に考える。時間がもたらした答えは残酷極まりないものであった。
「あれは、私の姿だった……?」
 『少女』に向かって話した自分のこと、自分が置かれた状況のこと、親のこと。今までの会話の全てが全部嘘だった。それは当たり前の一方通行であるが、それに初めての喜びを見出していた少女にとって相当なショックを与える。
 フラフラとしながら地面に寝転がる。空は相変わらず灰色で強い雨を降らしている。少女は、もう自分がまた動き出すことができると、全く思えなかった。自分の全てを投げ出して怠惰に身を浸す。雨に蝕まれる体は悲鳴をあげる。少女の頭の中には、走馬灯のごとく今までのことが思い起こされる。
 ずっと退屈だった日々。『少女』との出会い、別れ。そして最後に、忘れていた親の顔を思い出す。
 私が生まれた日、親はとても寂しそうな顔をしていた。
 目を閉じる。
 少女の信じる心は、どこにあったのか。今はもうわからない。どうやったってそんなことを確かめることはできない。確かなことは、少女の目から涙はこぼれないし、胸が苦しくなることもない。心の存在を証明するのは限りなく不可能だろう。零と一との違いを明確に違いがあるのかどうかさえも、解明することはできないであろう。
 ——きっと、心はもっと別の場所に。
 だからこそ、少女は信じ続ける。それの真偽はもうわからないと知りながらも。
「この想いは本物なんだ!」
 そう叫んだ声は。

 ポンと、破裂音にかき消された。

  * * *

 鏡写しの意識は水中を揺蕩う。ふわふわと浮かんだ私の意識が徐々にはっきりしてくる。それが悲しい合図だと気づいて、胸が苦しくなる。根っこのような私が今ここにいるということ自体が少女が不在である証明だろう。結局、少女は答えを知ることができたのだろうか。そんな心配が心の中でわだかまりを形成していく。寂しさはいっとう募っていく。
 ——イア……。
 胸に手を当てようとして気づく。私には体がない。今、確かに意識があると感じるが、この意識は一体誰のものなのか。私は少女のはずだった。少女は私のはずだった。それがどんなにおかしいことだとしても、それ以外に表現できない、ただの鏡写しだったはずだ。何で、私は意識を持っている。心があると感じられる。何で、少女に与えられなかったものが私に?
 それは神様のいたずらか、あるいは悪意か。何もない私に心を与えて、少女には与えなかった。もし、全てこのために用意されていたとしたら、神様は相当性格が悪いのだろう。この世の悪が霞むほどの悪である。
 私たちは、それでも勝てない。勝てないけれど、負ける気もない。捧げる祈りも存在しない。
 どこにも行けない私の心は、神への憎しみで満たされた。

 痛覚はない。呼吸も必要ない。ともすれば声も出ない。ただフワフワと、この水面に縫い付けられている。そこから見える街の姿は、とても退屈だった。唯一の住民を失った街は悲しみに暮れて涙を流し続ける。朝が沈んでも、ずっと。声もなく、魚もいない。カーテンコールのような雨音が響き渡るだけ。ついに孤独になってしまった街は、これからどうなっていくのだろうか。
 果てしない思考が体を巡る。私に残された暇つぶしは、思考することしか残されていなかった。というより、何か別のことを考えていないと少女のことが思い浮かんで、この身が並々ならぬ苦痛に浸る。それは呪いのようにじわりじわりと精神を蝕む。精神が身体な私にとって、それはどうしようもなく耐え難い苦痛であった。
 そうやって、苦痛を先送りにし続けて何日経っただろう。未だに空は厚い雲が覆いっていて、涙を落とす。大きな雫は凶器となって、街を蝕む。街が命を絶とうとしているのだろう。残念だけど、私に止めることは出来ない。誰かの選択を曲げられるほど、私は強くはない。偉くもない。街が選んだならそれはきっとしかたのないことなのだろう。
 でも、やっぱり残念だ。この街もきっと、この街を愛していた少女のために、その姿のままで存在していたかっただろう。そうしてまた、生まれた誰かに愛されたかったはずだ。
 降り注ぐ雨に苛まれ、街が溺れていく。少女の体が雨に流されていく。あのまま何処かへと流れ着くのだろうか。せめて、それが静かな海の底に沈むことを願ってやまない。声の出ない私には泣くことも叫ぶことも出来ず、ただ静かに無事を祈るだけだった。皮肉なことに、その祈りを捧げる相手は神様の他に存在しなかった。

 ひどく怖い夢を見た。眠っている、起きているといった状態が区別されていない私でも夢を見るのだな、とどうでもいいことを思いながら、夢の内容を思い起こす。だが、不思議なことに夢の内容を何一つ覚えていなかった。頭の中に怖い夢だった、という感想が宙吊りに残っていて、そこはかとない違和感を感じられずにはいられなかった。その違和感がどんな意味を持つのか、まったくわからないけど。そんなことはどうでもいい。悪夢の内容なんてものはさしあたって重要ではない。重要なのは、その悪夢を見たという事実そのものだ。心が何かを感じたから、それが夢に現れたのだ。私は心そのものである。そんな私に拭えぬ不安が押し寄せてきた。それでも為す術もなく、ただその波に流されるままでいるしかなかった。

 結局、街は沈んだ。それでも、私は水面に縛り付けられたまま、ずっとここにいる。なんて残酷で理不尽なんだろうか。
 神様、どうかお願いします。私を殺してください。返事のない明日がきても、私は生き抜くことは出来ません。少女と一緒の場所に行きたいの。だから、私のことを殺して。どうか明日が来て、また絶望が始まる前に。
 殺してください。