道連れ

 深夜零時。僕の部屋。
 天井に備え付けられた蛍光灯は未だに光り、読書する僕を照らしている。耳をすますと、微かに聞こえるのは夜のうめき声と、トラックの走行音だけだった。
 そんな静寂に浸りながら、紙に刷られた文字列を目で追う。僕自身、この文字列の意味を真に理解して読んでいるのか甚だ疑問だ。だから、この文字列は確実に文字列として処理される。そして、文字列に僕は影響を受けることはない。だとすれば、この読書という行為の意味はどこにあるのだろうか。まあ、行為に意味はなくとも、僕はそれなりに好きだから問題ない。
 ページをめくる。乾いた音が四角い部屋に静かに響く。確かな時間だけがすり抜けていく。
 ふと、喉の渇きを感じ、テーブルに置かれたコップを手に取る。そういや、小さい頃親にソファーで飲み物飲むな、とか散々言われたなぁ、と思い返しながら中に注がれているサイダーを一口飲む。口内や食道への刺激をまったり楽しみながら、その余韻を確かめる、やっぱり、サイダーは三ツ矢に限るな。香りが他のサイダーと突き抜けて違う。
 コップをテーブルに置き、読んでいた本の表紙を眺める。
「はぁ」
 それにしても。
「生徒会シリーズ面白いなぁ」
 僕が一番最初に読んだライトノベルだ。最初読んだ時はすごい衝撃的だった。みっともなくゲラゲラ笑っていた。その時の周りの視線を考えると死にたくなってくる。
 無駄に落ち込んだ気分を復活させようと、読書を再開する。ただ、さっきまでの集中力は戻ってこない気がした。
 しばらく、多少集中力を乱しながらも読み進めていく。
 そんな時。
 ——カサカサ。
 視界の端で、黒い物体が蠢いた。ふと、そちらを注視すると、黒き彗星とも呼ばれるゴキブリが縦横無尽に動き回っていた。思わず、足が竦む。確かに、親にゴキブリを殺されたことはあっても、逆はない。それでも不思議とゴキブリに対して恐怖が湧き出る。いや、本当に何をされたわけでもないのに。
 とりあえず、武器を手に入れなければ。確か、キッチンの入り口らへんに対ゴキブリスプレーがあったはずだ。僕は勇気を出して、この足を動かす。大丈夫、大した距離じゃない。
 走る。慌てた手でなんとかスプレー缶を手に入れる。噴射口を奴がいる方向に向けた。しかし、奴の姿はもう消えていた。
 取り逃がした。取り逃がした。取り逃がした。流石に、ゴキブリがいるとわかっていてそのまま放置する勇気はない。適当な隙間を見つけてはスプレーをしてみる。
 そして、部屋がおそらくスプレーまみれになったと確信できるくらいスプレーをした時、家の電話が鳴った。
 とてもじゃないが電話に出る気になれず、放置する。
「どこだ……」
 必死の捜索を続行させる。ゴキブリはこの部屋の中にいる。それを知って過ごすのと知らないで過ごすのでは意味合いがだいぶ違う。必ず、駆逐しなければ。
 スプレー缶片手に、部屋の中を這いずり回る。
「どこだ……」
 そうして、しばらく這いずり回ったところで、あることに気づく。
「まだ、電話なってんの」
 留守番電話モードだから、留守番電話につながるはずだが、なぜか未だになり続けている。普通に電話をかけているなら、こんなことにはならないはずだ。どういうことだろう。
 好奇心は僕を殺す、かもしれない。不思議と僕はこの電話に恐怖と同時に好奇心を強く抱いた。
 電話機の前に立つ。未だに電子音が鳴り響いている。なぜだか震えた手で受話器を掴む。
「もしもし」
「……? あなたはどちら様かしら?」
「ここの住人だけど、電話に出たんだからそりゃそうだろう」
「……まあ、いいわ……」
 なぜだか、訝るような雰囲気が受話器越しに伝わって来る。疑われる筋合いはないんだよなぁ。
「私、メリーちゃん——」
「自分にちゃん付けって恥ずかしくないの? ちゃん付けなのは、アグネスぐらいだろ」
 あいつ、そんなに好きじゃないけど。
「……私、メリー。今、あなたの家から約三十キロメートルのところにいるの」
「そうか。大変だな。じゃあな」
 受話器を置く。
 非常に趣味の悪い悪戯だな。悪戯電話をする人間がこの地球上から消えればいいのに。まあ、通話料は相手持ちだから僕のお金は減らないし、通信会社のお給料になるし、僕が迷惑を被らなければ一向に構わないんだけど。
 スプレー缶を持ち直して捜索を再開しようとした時、またしても電話が鳴った。友達たる存在がいない僕にとってこんなに短時間で電話がなるのは久しぶり、というか初めてだった。
「もしもし」
「私、メリー。今、あなたのマンションのエントランスにいるの」
「移動が早すぎないか? 口裂け女じゃあるまいし」
「は? 死ね!」
 ガチャン。
 僕は驚きを隠せない。今、鏡を見たらきっと面白い顔をしていると思う。あ、いや。元から面白い顔してるわ。待てよ、面白い顔じゃなくて不愉快な顔じゃないか……? 意味もないのに、気分がどんどん落ち込んでいく。
 そんな中、また電話がなる。どうせ、またあいつだろう。出る必要はない。電話線を抜く。
「これでよし」
 僕はゴキブリ捜索を諦め、読書を再開するため、椅子に座る。しばらく、没頭できない時間を過ごし、いよいよ集中力が出てきたぞ、というときに、携帯電話が鳴った。
 舌打ちをしつつ、電話に出る。
「もしもし」
「私、メリー。今、あなたの——」
「うるせえ、殺すぞ」
「は? あなたが電話線切ったから、携帯電話にかけたんでしょ! 探すの大変だったんだから!」
 とんだ逆ギレだ。冗談じゃないぞ。
「悪戯電話を対策して何が悪いんだよ、死ね」
「いや、これ悪戯電話じゃないでしょ! もうわかるでしょ!」
「うるせえ、叫ぶんじゃねえ。唾がつく」
「電話越しにかかるわけないでしょ!」
「はいはい。で、決めゼリフは?」
「私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの——ってまだ着いてないわ! 憎きオートロックめ!」
 おいおい。なんでオートロックに引っかかるんだよ。お前、どうなの、それ?
「くっそー……。……あっ! こんにちわー。……私、メリーさん。今、マンションに侵入したわ!」
「おい。確実に今、誰かが開けたのに乗じて侵入しただろ。普通に不法侵入じゃねえか」
「私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」
 確かに、後ろから声が聞こえる。どうやらもう、チェックをかけられたらしい。さあ、どうやって回避しようか。
「じゃあ、殺すね」
「まあ、待て。俺はここの住人じゃない。すなわち、お前を殺した人間じゃないはずだ」
「別にもうどうでもいいや。ノルマ達成できれば。始末書書かされるかもしれないけど、まあそれで済むなら」
 床の軋む音。確実に、ゆっくりと僕に近づいてくる。まあ、僕はきっと終わりだろう。
「はぁ、面倒臭い」
 ——さよなら。

   * * *

 どんな動物にも天敵が存在する。そうすることによってある一定の個体が増えてしまうことを抑制している。
 この場合、僕はなんだろう。僕はきっと都市伝説の天敵に他ならない。僕は、都市伝説の暴走をある意味抑制するために存在させられているのだろう。まあ、僕が能動的に動くことはほぼないから、大概引っかかることはない。引っかかるのは余程のアホだと思う。
 なぜ、僕という都市伝説が存在するのか。妖怪や幽霊が存在する理由と同じだろう。望む人がいるから存在するのだ。もしくは、それが存在するだけで、面白いと感じる人がいるのかもしれない。
「なんてね」
 別に意味はないけれども、独り言を放ってみる。空っぽの部屋に寂しく響いた。
 まあ、存在に意味なんてないのさ。
「さて。読書を再開するか」
 椅子に座り、本を開く。しばらく読書をしていると、腕に何か違和感が走る。腕を見てみると奴がいた。そいつは視線を感じたのか、滑空を開始して僕の顔に着陸した。こう言う時にリクライニングしてると不利だよなぁ。この椅子、リクライニングしてると重心の位置が変わるのか、すごい不安定になるんだよなぁ。

 深夜一時。深夜の静かな部屋にそぐわぬ大きな音が響いた。